KY-2峰遠征報告~アタック編~
BCにて一連の訓練や装備点検を終えて遂にアタックを迎えた。
夜8時起床。極寒の中すぐにハーネスを装備した状態でキッチンテントに集合し、朝食(?)をとる。
この日アタックをかけるのは私たちのチーム4人パーティ×2パーティの計8人。
仲間の一人、インド人のバドゥルーシは低酸素による消化不良を起こしBCでサポートメンバーとともに待機することになった。昨日アタックをかけた別チームはパーティのうち半分が6000m手前で撤退、その前のチームは全員撤退している。クレバスや急傾斜のトラバース地点、一度登り始めると平らな場所が存在しないということで5400m以降山頂までアンザイレンをすることがこの山の一般的な攻略法となっているが、アンザイレンした場合ザイルパートナー一人がダウンした時全員の撤退が確定することがこの登頂成功率の低さにつながっているようだ。おまけに今年はアドバンスベースキャンプの設置が禁止されたためベースキャンプから15時間の一撃アタックする他方法がないというのもダウンする原因になっている。アプローチで1週間山歩きした体にこの酸素量、気温、風、足場で15時間行動というのはかなりの負担だ。
そんなことを考えながら緊張して朝食を食べていた。
夜9時、朝食を終え隊長からの一言が終わると、アタックを開始した。まずはクランポンポイントを目指して残雪のガレ場をひたすら登る。すぐに暑くなるかと思っていたが、気温はかなり低く全く暑くはならなかった。風が刺すように寒い。
アタック開始の瞬間
深夜11時半、目の前に真っ白な大斜面が現れた。クランポンポイントだ。全員アイゼンを装着、そしてアンザイレンをした。氷河のとりつきを開始するともちろん登るスピードは物凄く落ちた。
そしてスタートして約1時間、標高5500mで真っ暗の中ヘッテンとトレースを頼りに巨大なクレバスをトラバースしてよける。
身近な死の存在に不思議な感覚を覚えながらも山頂の存在を感じた。その後は傾斜55~60度の急斜面をひたすら無心で登った。何も変わりがなく周囲も全く見えない、そんな中何時間も足を動かし続けるのは精神的にもやられる。とはいえ、アンザイレン中。片時も気を抜いてはならない。そして午前5時ごろ、一番の危険地帯、標高6000m地点の北西稜に向かってトラバースする場所をクリアした。
振り返ると遠く中国の方の空がオレンジに変わっていた。同時に、自分が登ってきた場所を見ることができ、なんて場所を登ってきちまったんだと絶句した。
6000mで迎えた夜明け。下を見る少しゾッとしてしまった。
視界が明るくなったと安心したのもつかの間、6100mに上がるころにはホワイトアウトした。トレースを頼りに一歩一歩確実に進んだ。ここまでくると酸素の少なさも恐ろしく辛く、空気に対してキレそうになる。こうした頭の回転も悪くなる環境ではシンプルな表示で時間と標高を教えてくれるSUNNTO COREのありがたみがものすごく分かった。
そして6200m、天候が回復しKY-2の左につきだした特徴的な山頂が見えた。ゴールだ。
ここで疲労がすべて吹っ飛びラストを押すことができた。
そして、アタック開始から10時間半。
遂に。
遂に・・・!!!!!
2019年9月2日 午前07時32分 インドヒマラヤ・ザンスカール山脈KY-2峰6247m、登頂成功!!!!!!
夢にまで見たKY-2の山頂に、6000の頂に立つことができた。ものすごい達成感。ものすごいどころではない、もはや現実なのか?と疑うほどだった。眼下に見下ろした岩山たちは皆富士山よりも標高の高いピーク。この爽快感。
間違いなく今まで経験したすべての登山の中で最も辛い戦いだった。そして最も危険な登山だった。
自分で言うのは少し変かもしれないが、20歳でこの景色を見ることができた自分に誇りを感じた。
(今はもう21です・・・)
一年かけた計画が、ついに実を結んだ瞬間。一つの山にこれだけのことをかけたということに一体何の意味があったのかは分からない。そもそも一体どいういう風の吹き回しでこんな命を懸けた冒険に出たのか。
何故6000に挑もうと思ったのか・・・。
でも、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩いたことの本当の意味に気づいたのが最近であったかのように、このKY-2の山頂の本当の意味に気づくのはもっと時間が経過してからなのかもしれない。
ただ一つ、物凄く実感したことは、
人間かわれるものだということだ。
山の「や」のも知らない、さらには腰椎椎間板ヘルニアを患い高校体育を半分も出ていなかった軽音部の弱小高校生がここまで来たのだから。
それまでの準備等全過程を踏まえて、登頂成功したことに対しての感想は
「俺はやったぞ!!!ザマア見やがれ!!!」
というのが一番今の自分の気持ちに近いかもしれない。
下山中は物凄い疲労に襲われながらも、「この先自分の人生がどんな方向にどう転ぼうとも、自分がヒマラヤ6000m級のサミッターであることは今後一生変わらない事実である」とうきうきしていた。
しかし、下山の足場は物凄く危険で1ミリも気を抜いてはならなかった。
昼過ぎ、BCに帰還すると仲間や他のチームの人が「登頂おめでとう」と口々に迎えてくれた。
なんだかヒーローになったような気分だった。
そして、倒れるように寝た。