KY-2峰遠征報告~BCアプローチ編~
こんばんは、10日ほど前に帰国したウツボです。
記憶が薄れないうちにクッソ長い遠征の報告ブログを書きます。
タイのバンコクとインドのニューデリーで飛行機を乗り換え、8月21日にインド、ジャンムーカシミール州のレーに到着した。標高3500mの高山砂漠にある街だ。

レーの街並み
ここら一帯は同じヒマラヤとはいえエベレスト周辺とはかなり違った顔を見せてくれる。Nun峰、Kun峰といった名だたる7000m級にPT6045峰をはじめとする未踏峰が眠る地でもある。北にはかの7000m級、サセールカンリⅠ峰~Ⅳ峰に始まるカラコルム山脈がそびえ、天気によってはK2も見ることができる。こんなロマンの塊行くしかないだろ!!!なんて考えていたら来てしまっていた。
さて、遠征チームの集合は8月24日。それまでに買い出し、高度順応、医療機関でのメディカルチェックを受けた。

同じアタックパーティの仲間。左からアビー、ドゥルフ、アルジュン、俺。
仲間が集合するとすぐにレーを出発した。悪路専用ミニバンのような車に乗り、4時間。ザンスカール山脈のど真ん中のチリンで車を降り、いよいよアプローチが始まった。まずは数日間、この岩の渓谷をひたすら進み続ける。
標高は3000mちょい。ちなみに、ザックの重さは20㎏を少し超えるくらい(水がとにかく多い)、序盤は1日につき2、300mほど上がる。気温はそこまで高くなく、空気も乾燥しているが日差しがものすごく強く暑い。また、この時からパルスオキシメーターによる血中酸素飽和度(SpO2)の測定も始まった。下界では98~100が正常値だが、標高が高くなるにつれてこの数値が下がり、またこの数値によってその登山者の酸素の状態を見ることができるというものだ。

チリン村のスタート地点にて。後ろの馬やロバは物資運搬係。

こんな場所を何日も・・・
さて、最初の数日は大昔からここに住む“ラダッキ”という人たちの家に泊めさせてもらっていた。実はこの辺りはインド領であったおかげで中国文化大革命の影響を受けることが無く、最もチベット伝統文化が残っている場所と言われている。
このラダッキ達の生活について書くと日が暮れてしまいそうなので割愛するが・・・とにかくたくましい人たちであった。
ただ一つだけ、こうした極地法の大所帯のチームが様々な登山実績を挙げるのは、大前提としてその後ろに地元民族の協力が不可欠であるということを忘れてはならない。彼らのおかげで物資の調達がスムーズに進み、飲料水の確保が容易になり、そして自分たちはお邪魔させてもらっているという意識をまた忘れてはならない。

ラダッキのおばあちゃん。背中がたくましい。

シーパクトゥンと呼ばれるフルーツ。そこら中に自生しておりラダッキの貴重な生活資源にもなっている。レモンに近い味。
進み始めて3日目。3800mのマルカ村で私は食中毒になってしまった。猛烈なだるさと嘔吐下痢、最悪だった。もちろん病院など存在せず、電波の届くところまで最短で歩いて3日。「これがいわゆる野垂れ死ぬってやつか」とストレートに感じた。そして脳裏によぎる撤退の文字、1年間かけた計画をその山の姿を見ることなく撤退するという悔しさを想像するとゾッとした。しかし、この時私は万が一にと抗菌薬を所持していたためそれを服用した。また、こうした場合本来睡眠もかなり重要だが、遠征中隊員には高度障害予防、高度順応の目的で「タバコ&酒厳禁、1人1日最低5ℓ以上の水を飲む、就寝時間以外の寝落ち厳禁、SpO2が80以下でアタック中止」という制限が課せられていた。そう、人間寝てしまうと呼吸回数が下がるため高度を上げた日中での寝落ちは急性高度障害のリスクを上げてしまうのだ。ただ、私はこの時もうすでに限界であったため隊長と相談し30分寝て30分起きることを繰り返すことになった。良いのか悪いのか分からないが。実際この日の夜のSpO2は前日に96だったのに対し88まで下がってしまった。これにはかなりメンタルを持っていかれた。「スタートから800m足らずしか登っていない場所で80台まで来てしまった。これで5047mのベースキャンプへ上がったら俺は・・・」と。なんとも身体的にも精神衛生的にも最悪なイベントだった。


"glacier ice bucket challenge"(氷河バケツチャレンジ)と言って氷河から溶け出したてキンキンの水をかぶって体を洗う仲間たち。ちなみに一番左のアメットさんは45歳。最強のおじさん。
翌日、抗菌薬のおかげもありかなり回復することができた。まさに危機一髪。
そして濁流の渡渉を繰り返しまたひたすら登り、ついにKY-2峰がその姿を現した。心の中で「お前に会うのにどんだけ苦労したことか、待ってろよこの野郎」と思っていた。その姿の第一印象は「ヤバい富士山」。写真だとやはりなかなかその大きさは伝わりにくいが、さすがヒマラヤの頂、巨大だった。

仲間たちと。後ろにそびえる二つのピークのうち、左がKY-2,右がKY-4.
そしてその次の日から一気に標高を上げる勝負時に入った。
3900mから4800mまでを1日で登る行程、さすがにこの標高で20㎏のザックはかなりこたえる。後ろを振り返れば物凄い絶景だがそれ以上に辛かった。11時間かけてその日の野営地につくと頭痛と胸の高鳴りが始まった。高度障害だ。ひたすら水を飲み、軽い散歩を繰り返し、英気を養う。食中毒の後一度90台まで回復したSpO2はこの日86まで低下した。それまでの自分の最高到達高度がナガルジャンの5100mであったことを考えると、物凄い場所に来ているなと実感がわいた。

丘の向こうに頭だけ見えるKY-2をバックにドゥルフと2ショット。これでも38歳のおばちゃん。
そしてついにその翌日、野営地から3時間の移動で標高5047mのベースキャンプに到達した。ここまで1週間。やっとKY-2のその全貌を見ることができた。
すぐそこに迫った巨大な氷河、人が登れるとは思えないKY-1北壁の巨大な懸垂氷河、まさに圧巻だった。

右の小さいテント群がBC。正面にそびえるのがKY-1とKY-2。ここから見るときれいな双耳峰だ。

テント内

今後一生これを越える星空は見れないだろうというくらい綺麗な星空だった。